元営業マン、カメルーンで教師になる

1994年26歳 求人広告/営業・ライター業務を経て退職。青年海外協力隊員としてカメルーンの小学校に勤務。充実した活動をアピールするよりも、現場経験のない自分が体当たりでどこまでやれるのか、そしてその中で感じた素直な気持ちを書いていきたいと思います。趣味はお茶と登山。

カメで苦しかったときの話をしようか①【自分の存在意義】

継続的に本を読む習慣があります。

最近読んだ本で印象に残っている一冊が、

あのUSJを復活に導いた森岡氏の著書【苦しかったときの話をしようか】です。

 

ここでは詳しく説明はしませんが、

就活期で進路に悩む娘に宛てた手紙を書籍にしたもので、

人生における軸の作り方や思考法が書かれていました。

 

 

苦しかったときの話をしようか

 

 

今日はそれに感化されて、

ぼく自身がカメルーンの生活で苦しかったことを紹介します。

 

 

先に結論から言うと、

苦しかった経験をポジティブに捉えているためゴールは悲観的ではありません。

ただ、JICAが紹介する隊員の活動紹介にあるキラキラした一面よりも

その背景にある苦悩が何倍も多いのが実際です。

(もちろん個人差はあります)

 

またそれに対してどうやって向き合っていったのかも併せて伝えることで、

今後協力隊の参加を考えている方にとって有益な情報になればと考えています。

 

本日のテーマは【存在意義】です。

 

 

自分と現場のギャップ

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はじまりは好奇心と期待

これは全ての協力隊員が感じると思いますが、

必ず自身と現地の人との間には価値観や考え方において大きなギャップがあります。

 

例えば、

<隊員> 「現地の人の役に立ちたい!何かを変えたい!」

<現場> 「現状で満足、この外国人だれ?」

 

こんな感じでスタート時点で大きなギャップが存在します。

特に隊員からすると協力隊を受験してから訓練を経て、現地へ派遣されるまで約1年間あります。

様々な思いを抱えて現地の空港に到着したとき、

それはやる気と希望に満ち溢れているでしょう。

また見るもの全てが新鮮で、好奇心も強く惹かれます。

 

ぼくもそうでした。

学生時代に国際協力に興味を持ち、教育現場に携われる。

今まで失敗続きだった自分が初めて自分の「やりたいこと」に携わる機会。

それがぼくにとっての協力隊でした。

 

 

初めてギャップを感じたとき

2月にカメルーンへ到着し、

自分の活動地域であるムフーで暮らし始めたのは3月上旬からでした。

校長先生や周りの先生と挨拶をしました。

 

ぼくは6代目の隊員ということもあり、

過去の協力隊員と一緒に活動をしていた先生もおり、和やかな雰囲気でした。

内心「いい人たちに恵まれてよかった」と安心したのを覚えています。

 

もちろん今でも彼らのことは大切な存在で、好きで連絡を取りあう仲です。

ただ今思うと、はじめはお互いの考えをしっかり共有できていなかったように思います。

 

学校へ配属されて数週間後には時間割を決め、

授業をすることになりました。

授業はその当時は音楽と体育が中心でした。

 

とにかく子どもたちにとって学びのある楽しい授業にしたい。

そんな想いで放課後に自宅で指導案を作成し、

教育事務所の職員にフランス語の添削をしてもらいながら授業に臨んでいました。

そんな生活を続けて2ヶ月が過ぎた5月下旬あたりから違和感を感じ始めました。

 

それは

【自分のやっている授業に意味があるのかどうか】

 

その当時の授業は、

時間になったらぼくが教室を訪れ授業を開始します。

その間先生は後ろで事務作業をしていたり、

外で他の先生とおしゃべりしたり。

ぼくの授業に参加してくれないことが多くありました。

 

ぼくとしては自分の授業を先生たちにも知ってもらいたかったし、

授業のやり方について色々と議論したかったのですが、

先生たちからすると、

「自分の仕事を変わりに担当してくれる人がいてラッキー」ぐらいの気持ちで

捉えている先生が圧倒的に多いのが悩みでした。

 

今思うと、

音楽の授業は学校に道具が何もなかったので持参したウクレレを使っていたり、

体育も先生たちから見たら訳のわからないアクティビティーをしてるように映っていたのでしょう。

これでは先生たちが興味を抱く授業とは言えず、ぼく自身の落ち度だったと感じています。

 

しかし、

このまま1人で授業をやり続けて本当に現地のためになっているのか

わからなくなったのがカメルーンへ来て4ヶ月目あたりのタイミングでした。

 

 

結局使い勝手の良い駒なのか

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決定的な瞬間

その後この違和感は10月あたりまで続きました。

6月下旬から8月いっぱいは長期休暇のため実質的な活動はサマースクールでした。

 

9月の新学期になってからも、

校長先生や周りの先生たちからも引き続き同じような授業をやってほしいという声をもらいました。

一見すると相手に求められている=需要のある活動をしていると

錯覚してしまいますが、ぼくが感じたのは根本的な違和感です。

つまり現地の先生の代わりに自分1人で汗をかいて授業をするということに

意味を感じなくなっていました。

 

ある時ぼくの授業中に教室を抜け出してサボろうとする先生たちに対して、

後ろから追いかけ、なぜ教室を立ち去るのか強く主張をぶつけたこともありました。

それでも響かない先生がいたり、

ぼくの意見を聞いて教室に戻ってくれた先生もいましたが、翌週の授業では元通りの状態に。

 

時には授業の前日に先生に対して、

「明日の授業は見学するから、〇〇先生が体育の授業やってみてよ」と提案することもありました。

翌日、どんな授業をするか楽しみにしていると

80人の子どもたちを2列に並ばせ、

ボール1個でキャッチボールをするのみ。

 

ただでさえ子ども人数が多く、授業時間は30分と限られているのだから

より多くの子どもが運動に参加できる工夫をする必要があるとぼくは言い続け、

それをもとにした授業をし続けていました。

しかし実際に先生が授業をすると、

 

→待ち時間が多すぎて子どもが途中で飽きる

→子どもが遊んだり騒ぎ出す

→先生がムチを使って子どもを黙らせる

→そのやり取りが続き時間がなくなる

→そのまま授業が終わる

 

こんな酷い状況が目の前で起きている現実。

いままで下手なりに授業をやってきた数ヶ月が何も先生たちに響いておらず、

頭と心に残っていないという現実にショックを受けました。

 

また前日先生が授業をすると約束したにもかかわらず、

授業当日時間になっても先生が来ない。

そんな裏切りにあったこともたくさんありました。

 

子どものために自分で良い授業を率先してやりたいという想いと、

現地の先生に根付かない一時的な授業は無意味。

そんな2つの感情の間で葛藤が起こり、

「自分ってなんでカメルーンに来たんだろう」

そんな自分の存在意義まで考えるような場面もありました。

 

 

ここまで頑張っているのに 

 表面的に見たら、

授業をやってくれる使い勝手の良い駒として求められていたので、

その期待に応えるという存在意義はあったと思います。

でも【それは自分が本当にやりたいことなのか】という軸で考えると

答えは違いました。

ぼくは【対子ども】ではなく【対先生】に向けて何かを残し、

その結果子どもたちに長期的に還元されてほしい。

そう考えていました。

 

だからこそ最初は楽しんで積極的に取り組んでいた授業も、

授業をするのが目的ではなく、

その授業をとおして先生たちの発見につながったり、

日本の授業に対する考え方を交換するような目的のために

自分は授業をやりたかったのだと思います。

 

しかし現実は違いました。

このギャップに自分の活動の意味が揺らぎ、

このまま続けても無駄なんじゃないかという考えに至ってしまったのだと思います。

 

そもそもカメルーンに来るために会社を辞めて協力隊に参加し、

訓練所では慣れないフランス語をゼロから学び、

日本の家族や周りの人を残して24時間以上の時間をかけてカメルーンに到着。

そんな苦労を経ての今にも関わらずこの有様・・・

 

現地の先生たちは14時半で学校が終わるためそこで勤務終了ですが、

ぼくは学校と教育事務所を行き来しており、

先生たちよりも頑張っていると思うのになんで理解されないのか。

 

また他の国の隊員が次々と順調に活動が進んでいるというSNSの投稿を見て、

余計に萎えた自分もいました笑

 

 

 

それでも現地で活動続けたわけ 

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全ては自分の決断から

 それでも現地で活動を続けたわけ。

それはカメルーンに来ることを自分で選択したからでした。

 

「協力隊は誰かにお願いされていくのではなく自分から志願して行くもの」

そう訓練所で職員の方が話しており、脳に刻み込んでいたお陰で

その状況から逃げるという選択肢は全く考えていませんでした。

 

また現状を変えるために少しづつ周りの事務所職員や校長先生などに相談し、

サポートしてもらうための動きにも注力するようになりました。

 

kyouryokutai.hatenablog.jp

 

詳しくはこちらの過去の投稿で書いていますが、

端的に言うと、協力隊の派遣目的を事務所職員や校長先生

そして現場の先生みんなに理解をしてもらうための時間でした。

この会議は今でも強く印象に残っており、

少しづつ状況が好転した1つのきっかけでもありました。

 

これらの結果は決してぼく1人ではなく、

同じ境遇で悩むカメルーンの協力隊員との意見交換や、

JICA職員の方々など多くの人達の支え合っての好転だったと思います。

 

またこのとき、何かを残さないといけないという焦りを捨てたのもこのタイミングでした。

そもそも何かを変えるという大それたことを隊員がするのは違うと思ったからです。

隊員から変えたいという提案もありですが、

できればぼくは現地の人達が当事者意識を持って変えたいことが見つかったときに

一緒に手伝いたい。

そんなスタンスに変わりました。

 

 

活動にあたって意識しておきたいこと

ぼくが一番大切だと思うことは、

【お互いの考え方や目的をはっきりさせること】です。

日本人と外国人は価値観が異なるのだからすごく当たり前のこと、

そんなように言う人もいると思いますが、本当にそのとおりでした。

ただ現場にいると、

2年間という限られた時間の中で何かしないといけないという感情と、

日本人には理解し難い現地の考え方や価値観によって自分の中で焦りを感じ、

1人で突っ走ってしまうような傾向は隊員では珍しくないんじゃないかなと思います。

 

なぜならこれは日本でも同じですが

関わる人が増えれば増えるほど進捗を把握・管理(マネジメント)する必要があり、

できるのであれば全て1人で片付けたほうが圧倒的に楽です。

しかし隊員の活動は技術協力であり現地に根付いた活動が大原則なので、

現地の人たちを放置した独りよがりな活動に意味はありません。

仮にその時効果があったとしても隊員が帰国した後も継続して行われるかどうかは疑問です。

 

有名な言葉で、

【魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教える】とはそのとおりで

魚をあげたほうが与える側も貰う側も楽なんです。

ただ、何らかの事情で魚を与えることができなくなってしまったら、

与えられる側は餓死を待つだけの状態になってしまいます。

従って面倒でも継続性のある活動に価値があるとぼくは考えています。

 

隊員が派遣前にもらう要請内容が記された調書は、

1年前に作成されたものと聞きます。

例えば、ぼくの場合2018年の秋募集の調書を見て応募しましたがこの調書は2017年に作成されたものになります。

つまり調書が作成されてから隊員が派遣されるまで約2年間の時間が空いており、

その間で状況が大きく変わることは珍しくありません。

 

またJICAと現地の協力隊員派遣のための合意は、

当然ですが現地の政府関係の省庁が担っています。

よって必ずしも隊員が派遣される事務所や学校など現場レベルまで、

隊員の派遣意義や目的が降りてきていない可能性が大いにあります。

そのため面倒でも今後協働して活動を進めていくためには、

お互いの目的や価値観をすり合わせることは必要不可欠だと考えています。

 

 

 

おわりに

以上が今日のテーマである

【自分の存在意義】に関してのカメでの苦しかったときの話でした。

 

当時は結構苦しいと感じることも多く、

同期隊員や先輩隊員から多くのアドバイスをもらっていました。

また同時に、他の隊員も同じような境遇であったため決して珍しい状況ではないのだと焦る気持ちを抑えたときもありました。

 

次は別のテーマから、

苦しかった話ができればと思います!