元営業マン、カメルーンで教師になる

1994年26歳 求人広告/営業・ライター業務を経て退職。青年海外協力隊員としてカメルーンの小学校に勤務。充実した活動をアピールするよりも、現場経験のない自分が体当たりでどこまでやれるのか、そしてその中で感じた素直な気持ちを書いていきたいと思います。趣味はお茶と登山。

【TCF SO】フランス語試験受けました 

だいぶ長引いてしまったフランス語試験、

延期が続いたり手続き的な問題で手間がありましたが無事試験を受けることができました。

 

今日は試験を受けた所感と自分の客観的なフランス語レベルについてお伝えします。

 

TCF試験について

「Test de Connaissance du français」略してTCFはフランス国民教育省が行うオフィシャルの資格。

 

全80問の選択式(リスニング30問、文法・語彙20問、読解30問)で試験時間は全体で1時間半です。

www.japon.campusfrance.org

 

 

SOが付くと、オンライン受験ということでパソコンで受験することができます。

 

フランス語試験と聞くと、同じくフランス国民教育省が行うDELF・DALFが最も有名で、

日本だとフランス語教育振興会が行うフランス語検定も人気かなといった印象です。

 

もともとはDELFのB1試験を受験するつもりでしたが、試験日程の延期があり早く受験できそうなTCFに振替受験をしたのがきっかけでした。

 

結局TCF自体も日程がズルズルと後ろ倒しになり結果試験日が8月30日という、当初予定よりも大幅に遅れた開催となりました。

 

詳しくはこちらで!

kyouryokutai.hatenablog.jp

 

 

TCF試験の最大の特徴は全てマーク式であることです。

 

イメージとしては英語のTOEIC試験に近い形で、合格不合格がなく制限時間内に問題を解き進めていくスタイルでした。

 

DELF・DALFの場合は、記述問題や文書作成、口頭試験などがあります。

 

そう考えるとDELF・DALFよりは難易度が低めな印象も受けますが、合否がないため自分の語学力をスコアで客観的にわかる点がTCFの良さであると感じました。

 

試験当日はパソコン受験のため都内の飯田橋にアンスティチュ・フランセへ。

 

人数はぼくを含めて5名、小規模で粛々とした雰囲気の中行われました。

 

 

試験結果

パソコン受験のため、試験終了後すぐに結果が渡されました。

 

ぼくの結果はこんな感じ。

 

  • リスニング   351/699
  • 読解、文法   303/699
  • 読解     355/699     
  • トータルスコア平均 341/699

結果的にはDELF B1相当のレベルという結果でした。

 

それぞれのレベル別対応表はこちら。

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目安を見ると、「日常生活や旅行で遭遇する大体の状況に対応できる」とのこと。

 

言い換えると「仕事で使うにはまだまだだけど、生活する分には生きていけるレベル」そんな解釈です。

 

スコアを見ると文法のスコアが低いという点もありますが、全体的に突出している部分もないため、ぼくのフランス語は脱初心者程度には成長していたようです。

 

語学力は自分の成長を実感しづらいので、客観的な数字で自分の実力がわかるのは今後の語学勉強の励みになりました。

 

 

受けてみた所感

受けてみた率直な感想としては「やっぱりこのくらいのレベルか」といったところでした。

 

最近はDELF B2の参考書を解いており、レベルの高さを感じていたので薄々自分のレベルはB1止まりだという認識はあったからです。

 

試験では問題の後半から難易度が上がるような試験形式のようで、たしかに後半になるにつれてリスニングは会話が長く、読解では文中の語彙が複雑になった印象を受けました。

 

今の自分はまだまだ基礎が足りていないと実感した瞬間でもありました。

 

フランス語を勉強し始めてもうすぐ2年になります。

 

全くのゼロからスタートして決して飲み込みが早い方ではありませんでしたが、

カメルーンで生活しながら勉強を続けてきた結果がB1相当でした。

 

次の目標はDELF試験のB2獲得を目指そうと思っています。

 

ぼくは資格自体にはあまり意味を感じないタイプです。

 

ですが、せっかく学んだフランス語でもっとカメルーンの人たちとコミュニケーションを取りたいという想いが、今ぼくがフランス語を学ぶ意味になっています。

 

次の秋試験に向けて、またコツコツ継続して頑張りたいと思います。

 

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カメで苦しかったときの話をしようか③【成果と焦り】

本日は第3回目、

これまでカメルーンの生活で感じた苦しかったことを自分なりの解釈で発信しました。

良ければこちらから、第1、2回をご覧ください。

 

kyouryokutai.hatenablog.jp

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今回のテーマは「成果」と「焦り」について。

これは隊員のマインドによって感じる人とそうでない人がいると思いますが、

ぼくは日々の活動で中々成果が見えない状況に焦りとストレスを感じていました。

 

他の国の隊員がSNSでうまく行った活動の写真をアップしているのを見ると、

キラキラと充実した活動に胸が締め付けられ、そっと閉じる。

そんな日々が続きました。

冷静に考えれば国も違えば文化も違う、配属先の状況も異なるため

活動の成果や進捗は当然人それぞれで比較対象にならないのが普通です。

 

ですが、当時はそんな余裕がありませんでした。

 

 

 

成果に拘る背景

そもそも、なぜここまで自分が成果に拘っていたのか。

それは協力隊が終わった後、

次のキャリアに結びつけられるような経験と自身を持ち帰りたかったからです。

 

ぼく自身、民間企業を退職して協力隊に参加しました。

従って嫌でも帰国後の進路を考えなければいけませんでした。

これは自分の決断であり、今でも後悔はしていません。

 

しかし、

・会社を辞め、海外行きという社会のレールから外れた行動

・日本で不自由のない生活を捨てる

・家族や大切な人たちと疎遠になる

 

そんなリスクを取ってカメルーンに行くのだから、

「2年間面白い体験ができて楽しかった!」

それだけで終わるのはもったいないと感じていました。

(当時からカメルーンに行くことがさほどリスクだと考えていませんでしたが・・・)

 

つまり色々なものを捨ててカメルーンに行くのだから、

それに見合う対価として、カメルーンでの成功体験を積みたい。

そう考えていたため、活動に対しては早く目に見える形の結果がほしいと感じていました。

 

結局は人と違う成功体験をして、

それを自分の価値として日本に持ち帰りたいというエゴがあったのだと思います。

実際はぼくの性格的なところもあり

活動に関しては計画を綿密に立て、常に意識高く活動に向き合っていました。

 

しかし当然そんな個人のエゴのために、

カメルーンの人たちが成果を生むために尽力するわけではありません。

むしろその逆で、カメルーン人のペースでのんびり進む(停滞している?)状況に

このままではマズい・・・

そんな不安とストレスを抱えていました。

 

今思うと勝手に自分の首を自分で占めている状況でした。

 

 

2年間という限られた時間だからこその焦る

また成果に拘ると同時に焦りもありました。

上記のような背景もありますが、一番大きかったのは2年間というリミットがあったためです。

 

民間企業でよく聞く話として、「自分は定年まで働くつもりはない」

そんな想いを抱えつつ明確な期限がなく惰性で会社員を続けていくことは珍しくありません。

一方で雇用期間が決まっている場合、常に活動終了から逆算して物事を考えることができます。

 

それがメリットに働くからこそ、計画的に物事を進めて頑張れるという一面もありますが

ぼくの場合は、常に成果を残さなければいけないタイムリミットとして常に頭にあり、

それが焦りを生んでいたように思います。

 

焦りは常に気持ちを引き締める効果もありますが、

余裕がなく冷静で適切な判断ができない。

そんな一面もあります。

ぼく自身は無意識のうちにこの焦りによって、

活動の軸が「どうすれば早く成果を残せるのか」という思考が中心になり、

赴任して半年くらいは常に焦り続け、

本来考えるべき現地の課題やニーズを置き去りに考えてしまっていた時期がありました。

 

 

自分の気持との向き合い方

結論から言うと、

現地の人と同じ目線で目標を目指していくという視点が大切だと気づきました。

 

実際、成果に対しての焦りや不安を抱え続けた半年間。

頑張りも虚しく、中々成果が見えてこない。

むしろ何も変化を残せてない自分にショックと焦りが加速しました。

 

しかし、1つのきっかけが自分の気持ちを楽にしてくれました。

それが学校がバカンスシーズンで長期休暇に入る間に孤児院で開催したサマースクールでした。

 

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結論から言うと、サマースクールは自分が心から楽しんで取り組むことのできた活動でした。

普段の学校と違って月〜土曜日夕方まで活動し、

日々何かしらの授業準備をしたりと体力的にも厳しかったのですが、

毎日が楽しく振り返ると充実した日々でした。

 

何よりも、子どもたちのためにスタッフ同士で意見を交換し

充実したプログラムを運営していくという取り組みが自分の中でとても楽しく、

やりがいを感じていました。

そこにはサマースクールで成果を残したいという感情はなく、

ただ子どもや、今回声をかけて貴重な機会をくれた運営スタッフの人たちと一緒に

充実した時間を過ごしたい。

そんな想いでした。

 

そんな経験から今までの成果や焦りを感じている自分は

思考が自分主体になっており、現地の人たちと協働した活動が大切だと頭ではわかっていても

つい忘れてしまっていると気づきました。

そして、改めてサマースクールの経験で現地の人達と一緒に同じ目標を持って取り組む喜びや楽しさにも気づきました。

 

そんな充実感の前では、成果や焦りという感情は目に見えない小さいレベルの話で

結局は自分の中で満たされていなかったのだと知りました。

それ以降、学校が再開してからは完全には焦りは消えませんでしたが

現地の先生たちと残りの時間でどんなことができるのか、

一緒に巻き込んで考えられるようになりました。

 

 

最終的な結果

 そんな成果と焦りを感じ続けたカメルーン生活は、

突如新型ウイルスによって緊急帰国という形で活動が終わりました。

(正確にはまだ待機段階ですが、見込みが立っていません)

 

振り返ると、

「〇〇を改革した!」や「〇〇を残すことができた!」などという華々しい成果は残すことができませんでした。

しかしごくごく小さいことですが、知り合いも誰もいない場所で非協力的な人たちが

次第に変わり、彼らの輪に入って活動ができたことに対する充実感と感謝を強く感じています。

 

客観的に見たら、「1年ちょっと途上国で楽しく現地の人と過ごしたのね」

そう見られるかもしれません。

しかしこれから日本社会に復帰し、その先で何かしらの成果が出せた場合

その時初めて、カメルーンの経験があったからだとぼく自身で実感し

それを成果だと感じることができるんじゃないかと思っています。

 

カメルーンの経験は、今後の飛躍のための蓄積として大切にしたいと思います。

 

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カメで苦しかったときの話をしようか②【言葉の壁】

前回からカメルーン生活で大変だったことを

赤裸々に語るようにしています。

 

第1回はこちら

kyouryokutai.hatenablog.jp

 

 

今日のテーマは【言葉の壁】です。

これは海外に行けば誰しもが経験のあることだと思います。

そして例外なくぼくも言葉の壁に苦しんだ1人です。

正直ぼくは今まで試験のための語学勉強はしたことはありますが、

話すための語学勉強をしたことはありませんでした。

特段英語が得意というわけでもなく、

THE普通レベルのぼくが、

協力隊を機にフランス語を学ぶきっかけになったのは

振り返ると大きな転機だったと思います。

 

言いたくても伝わらないもどかしさ

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会話にはリズムがあります。

「会話のキャッチボール」という言葉があるように、

言葉を相手に投げかけて、それを相手が受け取る。

その繰り返しが会話です。

しかし、カメルーンに来た当初この会話のリズムについていけず

疎外感を感じる日々が続きました。

 

フランス語ネイティブであるカメルーン人の輪に自分が入ることで、

会話のリズムが悪くなる。

相手から気を遣われて話を振られても、

うまく言葉が出てこず、

「ah...OK」と気まずい空気が流れる瞬間を何度も体験しました。

 

大学時代にオーストラリアに行ったとき、

決して流暢ではない英語力でしたが、

なんとなく会話は成立していたし、こちらもなにか言えば相手は理解してくれました。

 

しかしカメルーンではそのようなオーストラリアで感じた感覚がありませんでした。

その理由がなぜか考えてたどり着いた1つの答えが、

「相手が聞く姿勢にあるかどうか」でした。

これは決してカメルーン人が優しくないというわけではないのですが、

ぼくの周りのカメルーン人の多くは「聞く姿勢」というものがありませんでした。

 

つまりぼくと会話をしても、

ネイティブレベルの早さやボキャブラリーで会話をし、

理解できないならそれまで。

そんなスタンスで接してくれる人が多かったです。

裏を返せば、別け隔てなく接してくれたということですが

カメルーンへ来たばかりで語学力にも不安があった自分にとって、

このような環境は正直手厳しく感じていました。

もちろん、ぼくが会話でもたつくのを辛抱強く待ってくれるような

ホストファミリーや理解のある友人もいました。

彼らに支えられた部分は本当に大きかったです。

 

今思うと「結局は未熟な自分のせい」という結論で完結します。

旅行や遊びではない協力隊というプロジェクトの中の業務という環境で飛び込んだからこそ

「頑張ってフランス語を覚えたんだからちょっとは理解してよ〜」

という甘えを一切許さない環境だったのかもしれません。

 

 

弱者として損をする世界

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そんなフランス語力が未熟なぼくだったので、

コミュニケーションが円滑に取れないことによる弊害も生じてきました。

その1つが自分に情報が回ってこないことでした。

 

会話ができないなりにも、

自分を鼓舞して学校の先生達と関わる時間は敢えて増やしており、

何もできなくても多くの時間を一緒に過ごすということを意識していました。

しかし一緒に過ごした時間が長くても、

その時間で流れていた情報をキャッチできていなかったことで、

ぼく自身情報漏れはかなりありました。

 

ある日学校で先生と一緒に翌日午後に行う予定の音楽の授業内容について

話をまとめているときでした。

先生自身も授業内容に関心がありいい雰囲気で打ち合わせを終えました。

しかし翌日の午後、授業予定の教室に行ってみると先生がいない。

しかも先生どころか子どもたちも早帰りをしていて教室には誰もいませんでした。

翌日その先生を見つけたので昨日のことを話してみると、

「あれ、昨日は校長先生の家で懇親会だったから午前中で授業おわったよ」

そんな一言で片付けられてしまいました。

 

・懇親会あるとわかっていたなら、なぜ打ち合わせの時に言わなかったのか

・そもそも懇親会の存在知らないし、呼ばれてない

 

そんなことでショックを受けたと同時に、

またまた疎外感を感じた瞬間でもありました。

 

他にも、

・会話が噛み合わずタクシーで見当違いの場所に連れられ、ぼったくられたこと

・買い物で店員の説明が理解できず、あきれた顔をされたこと

・学校に行ったら休みで誰もいなかったこと

 

そんなことはキリがないほどたくさん経験しました。

結局は、

→言葉が理解できない

→情報がキャッチできない

→余計な手間や不利益を被る

この負のサイクルを繰り返してしまっており、

苦労してしまいました。

 

【語学はパッションで伝わる】

そんな言葉もありますが、

ぼくはこの考え方は先程の経験から少し否定的です。

少ない抽象的なボキャブラリーだけで会話を押し切ろうとすると、

一見伝わったように錯覚しますが、

それは相手に解釈を委ねてしまうため詳細なすり合わせが難しくなります。

また聞く姿勢のある優しい人であれば伝わるかもしれませんが、

すべての人がそんな優しさの塊でできているわけではなく、

むしろ優しい人が希少かもしれません。

 

そして一番は語学ができないことは、

「コミュニケーション力が欠如している」

そういう捉え方をされるカメルーンでは、

このような悔しい経験をたくさん経験しました。

 

 

【まとめ】言葉の壁を克服するために

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このような自分の経験から、

言葉の壁=情報の差でありそれによってコミュニティに入り込めず

疎外感を感じてしまうということがわかりました。

 

語学勉強は、

たくさん勉強したからといって次の日に劇的な向上が見込めるものでもなく、

だからこそ自分の成長を実感しづらく継続が難しいのだと思います。

 

カメルーンにいる間は、

情報で取り残されたくない一心で必死にならざるを得ない環境のおかげで、

少しずつ会話ができるようになった実感を感じることができるようになりました。

また会話ができることでカメルーン人のコミュニティに溶け込めた小さな成功体験が

ぼくの自身に繋がった体験もしました。

言葉は手段であって目的ではない。

語学勉強を通してどうしたいのか、

これらの経験から、試験のための勉強を辞め

手段としての勉強を始めました。

それでもまだまだ自分自身フランス語は不自由であるため、

もっと努力する必要性を感じています。

 

以上が今日のテーマである言葉の壁でした。

カメで苦しかったときの話をしようか①【自分の存在意義】

継続的に本を読む習慣があります。

最近読んだ本で印象に残っている一冊が、

あのUSJを復活に導いた森岡氏の著書【苦しかったときの話をしようか】です。

 

ここでは詳しく説明はしませんが、

就活期で進路に悩む娘に宛てた手紙を書籍にしたもので、

人生における軸の作り方や思考法が書かれていました。

 

 

苦しかったときの話をしようか

 

 

今日はそれに感化されて、

ぼく自身がカメルーンの生活で苦しかったことを紹介します。

 

 

先に結論から言うと、

苦しかった経験をポジティブに捉えているためゴールは悲観的ではありません。

ただ、JICAが紹介する隊員の活動紹介にあるキラキラした一面よりも

その背景にある苦悩が何倍も多いのが実際です。

(もちろん個人差はあります)

 

またそれに対してどうやって向き合っていったのかも併せて伝えることで、

今後協力隊の参加を考えている方にとって有益な情報になればと考えています。

 

本日のテーマは【存在意義】です。

 

 

自分と現場のギャップ

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はじまりは好奇心と期待

これは全ての協力隊員が感じると思いますが、

必ず自身と現地の人との間には価値観や考え方において大きなギャップがあります。

 

例えば、

<隊員> 「現地の人の役に立ちたい!何かを変えたい!」

<現場> 「現状で満足、この外国人だれ?」

 

こんな感じでスタート時点で大きなギャップが存在します。

特に隊員からすると協力隊を受験してから訓練を経て、現地へ派遣されるまで約1年間あります。

様々な思いを抱えて現地の空港に到着したとき、

それはやる気と希望に満ち溢れているでしょう。

また見るもの全てが新鮮で、好奇心も強く惹かれます。

 

ぼくもそうでした。

学生時代に国際協力に興味を持ち、教育現場に携われる。

今まで失敗続きだった自分が初めて自分の「やりたいこと」に携わる機会。

それがぼくにとっての協力隊でした。

 

 

初めてギャップを感じたとき

2月にカメルーンへ到着し、

自分の活動地域であるムフーで暮らし始めたのは3月上旬からでした。

校長先生や周りの先生と挨拶をしました。

 

ぼくは6代目の隊員ということもあり、

過去の協力隊員と一緒に活動をしていた先生もおり、和やかな雰囲気でした。

内心「いい人たちに恵まれてよかった」と安心したのを覚えています。

 

もちろん今でも彼らのことは大切な存在で、好きで連絡を取りあう仲です。

ただ今思うと、はじめはお互いの考えをしっかり共有できていなかったように思います。

 

学校へ配属されて数週間後には時間割を決め、

授業をすることになりました。

授業はその当時は音楽と体育が中心でした。

 

とにかく子どもたちにとって学びのある楽しい授業にしたい。

そんな想いで放課後に自宅で指導案を作成し、

教育事務所の職員にフランス語の添削をしてもらいながら授業に臨んでいました。

そんな生活を続けて2ヶ月が過ぎた5月下旬あたりから違和感を感じ始めました。

 

それは

【自分のやっている授業に意味があるのかどうか】

 

その当時の授業は、

時間になったらぼくが教室を訪れ授業を開始します。

その間先生は後ろで事務作業をしていたり、

外で他の先生とおしゃべりしたり。

ぼくの授業に参加してくれないことが多くありました。

 

ぼくとしては自分の授業を先生たちにも知ってもらいたかったし、

授業のやり方について色々と議論したかったのですが、

先生たちからすると、

「自分の仕事を変わりに担当してくれる人がいてラッキー」ぐらいの気持ちで

捉えている先生が圧倒的に多いのが悩みでした。

 

今思うと、

音楽の授業は学校に道具が何もなかったので持参したウクレレを使っていたり、

体育も先生たちから見たら訳のわからないアクティビティーをしてるように映っていたのでしょう。

これでは先生たちが興味を抱く授業とは言えず、ぼく自身の落ち度だったと感じています。

 

しかし、

このまま1人で授業をやり続けて本当に現地のためになっているのか

わからなくなったのがカメルーンへ来て4ヶ月目あたりのタイミングでした。

 

 

結局使い勝手の良い駒なのか

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決定的な瞬間

その後この違和感は10月あたりまで続きました。

6月下旬から8月いっぱいは長期休暇のため実質的な活動はサマースクールでした。

 

9月の新学期になってからも、

校長先生や周りの先生たちからも引き続き同じような授業をやってほしいという声をもらいました。

一見すると相手に求められている=需要のある活動をしていると

錯覚してしまいますが、ぼくが感じたのは根本的な違和感です。

つまり現地の先生の代わりに自分1人で汗をかいて授業をするということに

意味を感じなくなっていました。

 

ある時ぼくの授業中に教室を抜け出してサボろうとする先生たちに対して、

後ろから追いかけ、なぜ教室を立ち去るのか強く主張をぶつけたこともありました。

それでも響かない先生がいたり、

ぼくの意見を聞いて教室に戻ってくれた先生もいましたが、翌週の授業では元通りの状態に。

 

時には授業の前日に先生に対して、

「明日の授業は見学するから、〇〇先生が体育の授業やってみてよ」と提案することもありました。

翌日、どんな授業をするか楽しみにしていると

80人の子どもたちを2列に並ばせ、

ボール1個でキャッチボールをするのみ。

 

ただでさえ子ども人数が多く、授業時間は30分と限られているのだから

より多くの子どもが運動に参加できる工夫をする必要があるとぼくは言い続け、

それをもとにした授業をし続けていました。

しかし実際に先生が授業をすると、

 

→待ち時間が多すぎて子どもが途中で飽きる

→子どもが遊んだり騒ぎ出す

→先生がムチを使って子どもを黙らせる

→そのやり取りが続き時間がなくなる

→そのまま授業が終わる

 

こんな酷い状況が目の前で起きている現実。

いままで下手なりに授業をやってきた数ヶ月が何も先生たちに響いておらず、

頭と心に残っていないという現実にショックを受けました。

 

また前日先生が授業をすると約束したにもかかわらず、

授業当日時間になっても先生が来ない。

そんな裏切りにあったこともたくさんありました。

 

子どものために自分で良い授業を率先してやりたいという想いと、

現地の先生に根付かない一時的な授業は無意味。

そんな2つの感情の間で葛藤が起こり、

「自分ってなんでカメルーンに来たんだろう」

そんな自分の存在意義まで考えるような場面もありました。

 

 

ここまで頑張っているのに 

 表面的に見たら、

授業をやってくれる使い勝手の良い駒として求められていたので、

その期待に応えるという存在意義はあったと思います。

でも【それは自分が本当にやりたいことなのか】という軸で考えると

答えは違いました。

ぼくは【対子ども】ではなく【対先生】に向けて何かを残し、

その結果子どもたちに長期的に還元されてほしい。

そう考えていました。

 

だからこそ最初は楽しんで積極的に取り組んでいた授業も、

授業をするのが目的ではなく、

その授業をとおして先生たちの発見につながったり、

日本の授業に対する考え方を交換するような目的のために

自分は授業をやりたかったのだと思います。

 

しかし現実は違いました。

このギャップに自分の活動の意味が揺らぎ、

このまま続けても無駄なんじゃないかという考えに至ってしまったのだと思います。

 

そもそもカメルーンに来るために会社を辞めて協力隊に参加し、

訓練所では慣れないフランス語をゼロから学び、

日本の家族や周りの人を残して24時間以上の時間をかけてカメルーンに到着。

そんな苦労を経ての今にも関わらずこの有様・・・

 

現地の先生たちは14時半で学校が終わるためそこで勤務終了ですが、

ぼくは学校と教育事務所を行き来しており、

先生たちよりも頑張っていると思うのになんで理解されないのか。

 

また他の国の隊員が次々と順調に活動が進んでいるというSNSの投稿を見て、

余計に萎えた自分もいました笑

 

 

 

それでも現地で活動続けたわけ 

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全ては自分の決断から

 それでも現地で活動を続けたわけ。

それはカメルーンに来ることを自分で選択したからでした。

 

「協力隊は誰かにお願いされていくのではなく自分から志願して行くもの」

そう訓練所で職員の方が話しており、脳に刻み込んでいたお陰で

その状況から逃げるという選択肢は全く考えていませんでした。

 

また現状を変えるために少しづつ周りの事務所職員や校長先生などに相談し、

サポートしてもらうための動きにも注力するようになりました。

 

kyouryokutai.hatenablog.jp

 

詳しくはこちらの過去の投稿で書いていますが、

端的に言うと、協力隊の派遣目的を事務所職員や校長先生

そして現場の先生みんなに理解をしてもらうための時間でした。

この会議は今でも強く印象に残っており、

少しづつ状況が好転した1つのきっかけでもありました。

 

これらの結果は決してぼく1人ではなく、

同じ境遇で悩むカメルーンの協力隊員との意見交換や、

JICA職員の方々など多くの人達の支え合っての好転だったと思います。

 

またこのとき、何かを残さないといけないという焦りを捨てたのもこのタイミングでした。

そもそも何かを変えるという大それたことを隊員がするのは違うと思ったからです。

隊員から変えたいという提案もありですが、

できればぼくは現地の人達が当事者意識を持って変えたいことが見つかったときに

一緒に手伝いたい。

そんなスタンスに変わりました。

 

 

活動にあたって意識しておきたいこと

ぼくが一番大切だと思うことは、

【お互いの考え方や目的をはっきりさせること】です。

日本人と外国人は価値観が異なるのだからすごく当たり前のこと、

そんなように言う人もいると思いますが、本当にそのとおりでした。

ただ現場にいると、

2年間という限られた時間の中で何かしないといけないという感情と、

日本人には理解し難い現地の考え方や価値観によって自分の中で焦りを感じ、

1人で突っ走ってしまうような傾向は隊員では珍しくないんじゃないかなと思います。

 

なぜならこれは日本でも同じですが

関わる人が増えれば増えるほど進捗を把握・管理(マネジメント)する必要があり、

できるのであれば全て1人で片付けたほうが圧倒的に楽です。

しかし隊員の活動は技術協力であり現地に根付いた活動が大原則なので、

現地の人たちを放置した独りよがりな活動に意味はありません。

仮にその時効果があったとしても隊員が帰国した後も継続して行われるかどうかは疑問です。

 

有名な言葉で、

【魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教える】とはそのとおりで

魚をあげたほうが与える側も貰う側も楽なんです。

ただ、何らかの事情で魚を与えることができなくなってしまったら、

与えられる側は餓死を待つだけの状態になってしまいます。

従って面倒でも継続性のある活動に価値があるとぼくは考えています。

 

隊員が派遣前にもらう要請内容が記された調書は、

1年前に作成されたものと聞きます。

例えば、ぼくの場合2018年の秋募集の調書を見て応募しましたがこの調書は2017年に作成されたものになります。

つまり調書が作成されてから隊員が派遣されるまで約2年間の時間が空いており、

その間で状況が大きく変わることは珍しくありません。

 

またJICAと現地の協力隊員派遣のための合意は、

当然ですが現地の政府関係の省庁が担っています。

よって必ずしも隊員が派遣される事務所や学校など現場レベルまで、

隊員の派遣意義や目的が降りてきていない可能性が大いにあります。

そのため面倒でも今後協働して活動を進めていくためには、

お互いの目的や価値観をすり合わせることは必要不可欠だと考えています。

 

 

 

おわりに

以上が今日のテーマである

【自分の存在意義】に関してのカメでの苦しかったときの話でした。

 

当時は結構苦しいと感じることも多く、

同期隊員や先輩隊員から多くのアドバイスをもらっていました。

また同時に、他の隊員も同じような境遇であったため決して珍しい状況ではないのだと焦る気持ちを抑えたときもありました。

 

次は別のテーマから、

苦しかった話ができればと思います!

 

 

 

 

人の縁は大切に

前回の記事では、

自身の今後の進路に関して書きました。

ぼくは延長という形でまだしばらく協力隊に所属する決断をしましたが、

一方で今回で協力隊の生活を終える決断をした人も多数います。

またカメルーンで一番近い隊次であった2018年度1次隊の先輩たちも、

自粛期間の中任期を終えて次の進路に進む報告をしていました。

こうやって今まで関わった人たちがポジティブではあるものの去り、

次の進路に踏み出していく様子は少し寂しくもあります。

改めてお世話になった人たちには本当に感謝しています。

 

よくカメルーン隊では現地のドミトリーで、

帰国間近の先輩隊員達を送り出す送別会をしていました。

先輩たちの最後の一言の場面でよく聞く言葉が、

「世界は繋がっている」でした。

別れがあっても海を超えた別の場所で同じように活躍する人がいるように、

世界は1つに繋がっている。

とてもいい言葉だと当時から感じており、ぼくの好きな言葉です。

 

協力隊は年齢も過ごした環境もバラバラの人が同じ組織に集まります。

決して他のコミュニティーにはないバラエティに富んでいるのが特徴です。

そしてそんなバラバラの人達が同じ協力隊員という立場でフラットな関係性になるため、

堅苦しい先輩後輩の関係は比較的少なく、しがらみなく関わり合えるのも魅力の1つです。

 

・海外生活が長く夢を求めて協力隊に参加した人

・元芸人で教師を目指すために参加した人

・プロを目指し、叶わず指導者として協力隊に参加した人

・国際協力に強い関心があって参加した人

 

挙げてもキリがない位、

たくさんの人と出会いました。

そして対話を通してぼくとは全く異なる価値観に触れました。

カメルーンでは隊員専用のドミトリーで朝まで語り合った日もありました。

そんな経験がぼくの価値観に少なからず影響を与えてくれているのかもしれません。

 

これからも直接会えるような関係性の人もいれば、

物理的距離で中々会えない人もいます。

ですが、どちらにしても同じ協力隊員として途上国のために尽力した仲というのは

変わりません。

困ったときはお互い様の気持ちで、また当時の関係性のように相談し合える。

そんな関係性であれたら最高だと思っています。

そしてこれからも切磋琢磨して、

次の目標に向かって頑張っていきたいですね!

 

 

7月末日で登録制と辞退を選択した隊員はJICAとの協力隊の契約が解消となります。

ぼくも含め、全ての隊員は自身の活動が途中で中断されるのを余儀なくされ

志半ばでの緊急帰国でした。

やり残しによる不完全燃焼だったり、

急な現地の人達との別れによる消失感が人によってあると思います。

ぼく自身も過去の先輩たちのように、任期満了で活動を終え

送り出される形でカメルーンを去る未来を疑いなく描いていました。

改めて人生は思い通りにならず、先が読めないものだと痛感しました。

ですがまず、

大きな決断をして次のステップに進む方々に対して、

今までの労を労うとともに、

同じ隊員として彼らに感謝を伝えたいと思います。

本当にお疲れさまでした。

 

ぼくも今後どうなるかわかりませんが、

今やれるべきことをしっかり行い、

次の一歩につなげていけるように頑張りたいと思います!

 

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ヤウンデ空港出発前の一枚

 

 

今後の方針

今日は自分語りです。

 

日本へ帰国してもうすぐ4ヶ月が経過します。

もうすっかり日本に馴染み、

日々変わらない生活を遅らせてもらっています。

現状はまだ協力隊の身分として、

一時帰国中という扱いで日本に滞在していることになっています。

先日JICAから通達が届き、

今後の進路に関する希望を問うものでした。

 

というのも、

協力隊の規定によると傷病や治安悪化によるなど日本一時帰国の滞在期間は

120日と決まっているからです。

つまりぼくが帰国したのが4月1日であることから今月末にはJICAとの契約が

本来であれば終了してしまうのです。

しかし、今回はイレギュラーな情勢であることから今月頭のオンライン会議で

3つの選択肢が提案されました。

今日はそれについて話します。

 

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①待機期間延長

1つ目は待機期間延長です。

つまり120日の規定を特例で延長し、

10月頭に情勢を判断し派遣可能かどうか検討する案です。

JICA曰く年内派遣を目指しての待機期間のようです。

 

【メリット】

・情勢によっては再度派遣されるかもしれない

・待機期間にJICA関連のプログラムや自己学習で自己研鑽できる

・籍を置いて置けるため手当が保証される

 

【デメリット】

・10月頭の判断で再派遣が難しければ強制終了(協力隊生活終了)

・待機期間中も派遣期間としてカウントされるため現地の活動期間が減る

・先の見えない不透明な生活が続く

 

待機期間延長をしたからといって、再派遣が保証されるわけではありません。

この3ヶ月は引きこもりつつ、語学力の向上(フランス語試験は見通し立たず)や

JICAのセミナーやそれ以外の外部の勉強会に参加していました。

中々気軽に出歩けない時期だからこそ振り切って知識を蓄える期間に使えたのは

良かったと思いますが、

ぼく世代の20代後半はバリバリ仕事をしている働いている様子を見ると、

なんとも言えない疎外感があるのは否めません。

4月から考えると約半年間今のような宙ぶらりんの生活が続くと考えると、

半年という期間を投資してまで、再派遣を待つメリットがあるのか自問自答する日々でした。

 

 

②登録制に移行

2つ目は登録制度です。

これは待機期間の120日で一旦協力隊の契約を解消し、

再派遣の目処がたったタイミングで再度契約を結び直し派遣をするという選択です。

登録期間は2〜3年間のため、情勢が落ち着いたタイミングで再派遣され

やり残した現地の活動を再開するといったものです。

主に現職参加(退職せず企業や組織に籍を残したまま参加する制度)の人たちは

こちらの選択となり、再派遣を待ちます。

 

【メリット】

・情勢が落ち着いたタイミングで派遣される

・契約が解消されるため、社会復帰することができる

・一度契約を解消するため残りの任期が担保される

 

【デメリット】

・情勢が落ち着くタイミングが不明確で、そのタイミングに自分の環境が変わる可能性

・契約が一度終わるため、退職して参加した人は次の環境をすぐ探す必要あり

 

登録性は割と現実的な選択だと個人的には思います。

コロナウィルスは現在アフリカはピークを迎え、

終息にはまだまだ時間がかかりそうです。

そのため、その期間に現職に復帰したり新しい環境でコミットすることは

再派遣を待ちながら社会復帰が可能であるため、

リスクを最小限に減らした選択だと思います。

しかし環境は常に変化するものであり、

例えば1年後に再派遣が可能という通知が届いたとしても、

所属先の状況や環境によっては再派遣に対して快く送り出してもらえる環境かどうかわかりません。

また、自分の場合は任期が2021年の1月末であることから再派遣が叶ったとしても

半年程度しか活動することはできません。

半年間のために今後わからない新しい環境を置いて、

任国へ戻る価値があるのかどうかは人それぞれの判断によるのだと思います。

 

 

③任期短縮で終了

3つ目は契約打ち切りとともに、協力隊生活の終了ということになります。

任期短縮という扱いになりますが、

JICAは今回の件を特例として捉え、任期満了扱いとして処遇を受けられるようです。

 

【メリット】

・次の進路に向けて素早い一歩を踏み出せる

・協力隊の経験を活かし、国際協力業界へすぐにチャレンジできる

 

【デメリット】

・退職参加組は新しい進路を早急に見つける必要あり

・任国へ戻る選択を諦めることになる

 

この選択は非常にシンプルでわかりやすいですね。

通常、任期短縮の場合は協力隊の手当を受け取れなかったり

JICAが設ける就職のプラットフォームの利用ができないなど制約があります。

しかし今回の場合は任期短縮であっても上記の手当や就職のプラットフォーム利用ができる他

扱いを「任期満了」されます。

国際協力業界へチャレンジするための要件として多くは、

途上国の現場経験が2年必要とされています。

今回の場合は2年に満たなくても任期満了として要件を満たす形になり、

協力隊の任期を待たずして国連やNGOなど国際協力業界に進むチャンスが開けます。

これはJICAの寛大な判断で隊員それぞれの尊重し、不利にならないような配慮がされています。

 

 

選んだ選択は?

長くなってしまいましたが、

ぼくは今回①待期期間延長を選択しました。

 

ぼくにとって任期は2021年の1月末までと考えると、

半年のためにカメルーンへ戻るのは厳しいと考え、

登録制の選択肢はありませんでした。

従って、延長or終了の2択でした。

 

正直に言うと最終的な決め手は、

次の進路が決まっていない中で所属先を失う不安感に勝てなかったからです。

 

おそらく多くの隊員は頭の中で、

「もう再派遣は難しいんじゃないか・・・」

そんな考えがよぎっていると思います。

ぼくもその1人で、正直難しいんじゃないかと思っています。

それであれば、すぐに次の進路を決めて社会復帰をして自立していかなければ!

と言う気持ちがある一方で、

次の進路も決まっていない中で露頭にさまよう不安感が最後まで拭えませんでした。

コロナによる景気悪化で有効求人倍率が下がっているという話もありました。

そんな見えない不安感に打ち勝つ決心がこの3ヶ月でぼくにはできませんでした。

きっとカメルーンにいる期間に先の進路を明確に考えられなかったツケが

回ってきたのかもしれません。

 

ということで、

次の10月頭まではもうしばらくこの生活が続きます。

そもそも退職して参加をした以上、次の進路を考える時期は必ず来るものです。

むしろ様々なしがらみがない自由な選択ができるからこそ、

自由であると同時に迷いによる不自由を感じているのが今の現状です。

再派遣の目処が立てば、この待機期間が価値あるものだったと言えると思いますが

そんな不確定要素に賭けるようなギャンブルをしたくはないため、

腹を決めて飛び込める次の進路を探しつつ、

継続して自己研鑽に努めていこうと思います。

 

以上が簡単な報告でした!

 

【面接編】協力隊の選考

前回まで書類選考の具体的な書き方について、

お話ししました。

今日の内容は面接です。

書類選考を突破すると、面接日程日が送られます。

そして会場ではその日中に人物面接と技術面接が行われます。

 

 

当日の流れ

当日のそれぞれの面接時間は20分程度です。

従って人物面接と技術面接を足し合わせても40分程度で、

それ以外の時間は待機となります。

この待ち時間が正直かなり長いので、けっこうくたびれます笑

 

当日は大講堂のような大きい会場に集まり、

注意事項や説明を聞きます。

そして配布された紙にそれぞれの受験生の面接時間が記載されており、

時間になったら別会場に移動し、扉の前で待機するような流れです。

基本的に面接は午前中1回午後1回で、

それ以外の時間は多少の記入事項など事務作業はありましたが、

ほとんどの時間は待ち時間であるため、集中力が途切れてしまいやすいのがネックです。

ぼくの場合は、10時くらいに人物面接を行い技術面接は15時付近だったと記憶しています。

 

会場には約300人ほどの受験生が集まっており、

過ごし方は人それぞれです。

隣り合わせた受験生と会話をしたり、面接を受けた人にどんな雰囲気だったか感想を聞いたり、読書をして過ごしたり。

個人的におすすめなのは、既に面接を終えた受験生から面接の雰囲気を聞くことです。

特に技術面接では、面接官は固定されているためどんな雰囲気なのか予め想定できるのは

大きな強みになります。

因みにぼくの場合は、扉の前で自分の面接を待っていると

中から笑い声や穏やかな雰囲気が聞こえてきたので、心の中でガッツポーズをしましたが

いざ自分の順番になるとそれまでの雰囲気が完全にリセットされており、

目の前には仏頂面のおじさんがいました・・・笑

 

 

人物面接

人物面接ではその名前の通り

【その人が協力隊員としての資質を持ち合わせているか】を判断するための面接です。

質問内容は主に書類選考で書いた内容からされることが多かった印象です。

面接官は2〜3名でJICAの職員が担当しているようです。

 

・自己紹介

・志望動機

・どの国を希望していて、その理由

・なぜこのタイミングで協力隊に志願するのか

・周りの人の反応は

・自身の強みや弱み

・弱みに対してどのように現地で乗り越えていくか

・活動でうまくいかない場合どう対処するか

・協力隊後の進路

 

そこまで難しい質問はされなかったと記憶しています。

特に自分の場合は、社会人3年目のタイミングで退職して参加をする意向だったため

社会人として仕事盛りのタイミングで退職してまで参加する理由や、

それに対して会社や家族など周りの人はどんな反応をしているのか尋ねられました。

ぼくは決まってから会社に報告してしまいましたが、

できれば事前に周りに相談できるといいと思います。

個人的に考える人物面接のポイントは2点です。

 

1)志望度の強さ

この面接をクリアすると合格となり派遣時期・派遣国・派遣前の研修など

全てが決まった状態で通知されます。

従ってJICAとしては、

採用を通知した時点で派遣国に対しても派遣予定者の詳細情報を通知をしており、

全ての細かい日程に沿って派遣準備を行なっているようです。

応募者が辞退するパターンだけは何としてでも避けなければいけないため

意思が固まっていないでとりあえず参加や、周りの反対を押し切っての参加に対しては

シビアな目で見られている可能性があるため意思を固め、周りの理解を得た上で選考に臨む必要があります。

 

2)メンタルコントロール

途上国という過酷な環境に派遣されるため、

辛い時でも耐えられるのかどうかの忍耐力やメンタルコントロールができるかどうか。

ここは面接官が注意深く見るポイントだと思います。

実際に派遣され、途上国の田舎村に日本人1人。

そんなケースも珍しくありません。

残念ながら現地の人々とのコミュニケーションがうまく取れず、

ストレスを上手に発散することもできず、

途中で帰国をしてしまう任期短縮という道を選択した隊員は毎年どの隊時にも一定数います。

「辛い経験をどう乗り越えたのか」この部分はしっかり面接準備することをお勧めします。

 

 

技術面接

技術面接では、

【その人物が現地で活動するためのスキルを持ち合わせているかどうか】を判断します。

人物面接と異なる点は、

JICA職員以外に技術顧問として外部の専門家が面接を担当しています。

従って、その専門家が技術力を問う具体的な質問をしてきます。

これは職種によっても大きく異なりますが、

ぼくが受けた小学校教育の面接では下記のような質問をされました。

 

・30秒で自己紹介

・志望動機

・なぜ小学校教育を選択したのか

・選択した国の理由

・現地でどんな活動をしていきたいのか

・参考になった先輩の活動やアドバイスなどあったか

・情操教育とは何か

・アクティブラーニングについて説明

 

それ以外にも聞かれたと思いますが、

忘れてしまいました・・・

他の隊員の方々も同様の面接対策に関する記事を投稿しているので、

参照してみてください。

因みに教育系でも理数科教師という職種の場合は、

円周率の原理や、〇〇を立証する実験を説明するなど

職種に特化した質問があるようです。

同様に技術面接のポイント2点を挙げます。

 

1)聞かれたことに対して簡潔に答える

これは面接では当たり前ですが、

専門的な質問に対しても簡潔にわかりやすく答えることを意識していきましょう。

面接の緊張感で上手に焦ってつい長々話してしまったり、わからないのにわかったふりをして

回答してしまうのであれば、考える時間をもらって答えたり

時には正直に「勉強不足でわかりません」と伝えることも必要だと思います。

 

2)現地の活動を具体的にイメージできているかどうか

物や設備が整っていない環境の中で、

どう活動していくのか事前にイメージしておくことは大切です。

どんなに素晴らしい理想論を語っても、資金力の乏しさや日本と異なる教育環境の前では

無力となることなどザラにあります。

ぼくが現場経験がなかったのに、それなりに活動できていたのは

ぼくのようなスキルのない人間でも

活動できてしまう教育環境だったという理由もあると思います。

そういう意味では、改めて日本の教育レベルの高さを感じられる瞬間でもあります。

 

 

まとめ

実は当時ぼくを面接した技術顧問のおじさん先生とは、

合格後に3ヶ月の派遣前訓練が始まる前の小学校教育専用の1週間研修で再開しました。

色々話を聞いてみると、もともとは小学校の教員でその後校長となり定年退職。

そんな背景もあるので、当然小学校教育に関してプロ中のプロでした。

 

技術顧問の先生の話を聞くと、

面接では別に粗探しをしているわけではなく、

子どもたちと一緒に学びながらその知識を還元できるスタンスを持ち合わせているかどうか判断しているとのお話でした。

面接中はとても怖い印象だったのですが、

実際はとても優しく、現地に隊員を送り出す重要な仕事として誇りを持っていました。

そして自分が送り出す隊員だからこそ、

自らが企画した1週間研修でできる限りの知識を伝え、

現地で活躍して欲しいと願っての行動だったようです。

過去には高齢にもかかわらず、カメルーンへ活動見学の視察に訪れたこともあったようで

そんな素晴らしい方でした。

現在は技術顧問を引退されたようですが、

協力隊を願う気持ちは変わらないのだと思います。

 

面接と聞くと、

受験者 VS 面接官のような構図になりがちですが、

ぼくは、

【途上国支援をしたいという者同士の意思やスキルのすり合わせの場】であると思います。

もしスキル不足なのであれば、

また勉強しなおて再挑戦すればいいだけの話です。

ぼく自身も学生時代に応募して面接で落ちましたが、

その2年後に協力隊員になることができました。

 

もし協力隊に興味があって応募を検討している方がいれば、

インスタからDMを下されば、自分のできる範囲でお手伝いできればと思っています。

 

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